最近,めっきり「事務処理能力」…いや「生きる力」にもつながるであろうか「自己学習能力」が低下していた。特に知識・理解や思考に関する部分での,欠落・抜け落ち・とびとび・・が目立っていた。総括する力もなくなっていた。企画する楽しさや,自分の部署内での責任を果たす原動力ともなろう,課題設定的なものまでである。
…もとより,私にはそんなものは備わってない,
「0」「無」と原点に引き戻していればそれはそれで楽だが(笑)
「意欲・関心・態度」などの情意面の目標が教育活動に付加されてどれくらい経っただろう。評価観点のtopに据えられ,多分に不動の位置を離れないだろう。教育に関わるものなら,誰しも,JSブルーナー著の「教育の過程」(私の誕生年とほぼ同時期の初版である)をバイブルのように読んだだろう。行動主義から認知心理への新たなへの着目,あるいは復興的流行かと思った。当初,何故そんなものが「学力」と称されるカテゴリを獲得したのかさえ疑問符であった。
が,確かに最近の自分自身をふり返れば,成る程,意欲や関心や物事に関わろうとする態度は,「学び」の根底を成しているのだということを身をもって感じた(笑)…そう,心が安定して,崩壊していた「興味関心」の支えが少しずつ戻って,そして「思考する」ということも可能になってきたということだ。情意の偉大さを痛感したのである。つい最近ね〜(笑)
**カガクが好きって?**
「科学が好きな子ども」の育成を課題として,理科屋である私は教育活動を推進してきた。“理科離れ”だの“理系の危機”だの,ピザだのティムスだの(笑)
世論にも煽られ『ただひたすら』に近く,健気にも追究してきたことになる。それ自体科学教育の純粋な「目的」追究ともなるし,重要な「教育内容」ともなる。「科学の重要性」を語る事自体「大風呂敷を広げる事」ではない。流行ではなく不易な面であるとも思う。
「科学の好きな子どもたちを育てよう」の過程で気づいたことは,子どもたちは決して,科学を倦厭(けんえん)あるいは敬遠(けいえん)しているわけではないということだ。表面的なイベント実験や,パフォーマンス的取り組みに流れてしまうことを危惧しないでもないが,そんなイリュージョン的実験も,いずれは純粋な「科学」への誘いの一助となると感じているから。
皮肉なことに(いや滑稽なことにか),俄の政変劇で「科学」の定義そのものに関する違和感を感じるようになった。実はずっと脳みその「心」に関わる部分か「理性」に関わる部分かは定かではないが,どっかに引っかかっていたことに気づいてはいたのだが。
「科学」と「理科」をどう定義するかによって,「科学の好きな子ども」の像は変わってくる。当然である。「お歌が上手に歌える優しい子に育てたいなぁ」と思えば,育ての責任者(保護者や教育者(笑))はそんな子にするための環境や,教育システムを用意するだろう。胎教からいっつもモーツァルトってのもあるだろうし,必殺ソルフェージュ責めって言うのもあるだろうし(笑)その筋の方達の教育観にお任せするしかない。
…そう,ここで,子どもたちに好きになって欲しい“科学”が,「自然事象そのもの」か「自然事象を対象とする問題解決過程」=「科学の手法」か・・目的的活動を伴う「理科学習」の範疇にするか・・で,本当に育ちが変わってきてしまうと言うことだ。
…な〜んて,そんな当たり前なことを言いたいのではない。
「科学」をどうとらえているかが問題である。
「世界を変えた科学の大理論100」なんてH10年初版の本を何年か前に積ん読した。こんな理論の基礎的知識を知らなくては,「科学の楽しさ」を育てる土俵には立てない,と思ったからである。希薄な知識しか持たない一介の教員としては,なかなか殊勝な心がけである。・・・しかしそれも甘かった。
**狭い**
科学する心を狭義に限定しすぎだったからである。抜本的改革が必要なのは,政治ばかりではなく,この世間に広がってしまった「自然科学=科学」の誤概念ではないだろうか。などと,ちょっと大上段に構えすぎか(笑)
(自然)科学の興味本位の点ばかりをつつく番組構成や,マンネリ化しつつある「科学」への先入観。日本人から,実験や観察を伴う科学的スキル,自然科学的な思考ばかりでなく,物事を客観視する「冷たい頭脳」が消えてきてはいないだろうか。
・・・そうである。「冷たい頭脳」,こちらはA.マーシャル先生の言葉からである。
古典を紐解くにあたり,モーツアルトやニュートンばかりではなく,こんな「古典」も大切だったのか・・と。経済学の巨匠たち,まさに,華麗なる学説が今おもしろい(笑)
その扉付近の「はしがき」にはこんな言葉。賛否両論を恐れずに,概略引用
「今日なお生きた経済学として小泉純一郎首相の『民間にできるものは民間へ』というスローガンなどにその影響が見られる。」思想的バックグラウンドが希薄な日本人。カガクが低迷している・・と気になれば,
「『冷たい頭と温かい心』の引用は竹中蔵相がよく使っていた。」
・・政府の経済政策を批判する場合にも,政策担当者がどのような理論に基づいて
そういう政策をやっているのか知ることが必要である。ひとかどの政治家や財界人は何かしら支えになる学説や心に残る名言を記憶して使うことが多い。そういう理論や言葉を知らない人は心して,自分の行動の支えになる人生観と同時に社会観を育てるべきである。
狭くその「盲点だけ」(自然科学)をつつこうとするが,本来我々日本人に欠如しているものは「そんな僅かなもの」ではないことを自覚すべきだろう・・あ,厭世的になってるんではないよ。盲点を作り出す眼球,視神経の仕組みにまで言及する必要がある。もっと脳みその仕組みにまで。。
ね,もっとカガクを狭義から広義に広げて考え,「カガクが好きな子」っていったら,いろんなカガクが好きでもいいんじゃないかって。そう思った。。。ただし,当然の事ながら,私に関しては,「理科」・・自然事象の中に浸ってそしてカガクを好きになって欲しいと思う。
もちは,もちやっていうのも大切だろうから。
■序章の助 こんなところも大切。。
なにが共通項かと言うこと。まうさんのblogでこんなエントリーさり気ない視点だが,私もこの細部での基盤が重要だと思う。
カガクを支える,数学的な思考である。まうさんは,いつも本質を優しい言葉で確実にエントリーされる,素敵な若者(失礼)である。(我が子と世代的には大差ない・・)
今回いくつかの事象にインスパイアされてエントリーしたが,
まうさんのシンプルな視点に寄るところも大きい。
私は,数式はどんな言語も越えて,世界共通の言葉だよ。。。
と私は子どもたちに教えます。単位にしても同じです。
「これくらい」といって手を広げてもその本人がいないと再現できない,
「1b」といえば,何処でもその長さが再現できるでしょう・・と。
科学への第一歩だと思います。
で,その自分のコメントでした(笑)経済学の学者さんも数学者さんが多いのね。
もしかすると,自然科学者よりも,その比は高いかも知れない。。
いきなり,社会科と数学科に開眼した+Lhacaでした。・・序章に変えて。。。


さて引用をさらに引用させていただきますと、”「1b」といえば,何処でもその長さが再現できるでしょう”が「科学」のまさに第一歩だとぼくは思います。
ぼくは環境問題を考える大学院で勉強をしていましたが、はたして環境問題を扱う分野は科学か、というのがぼくのひとつの悩みでした。なぜなら、いままでぼくは科学しか論じ方を学んでこなかったからです。
ぼくは「再現性」こそまさに科学のキーだと思います。再現して初めてそれについての法則ができますし、一般化も可能になります。社会科学という言葉がありますが、これがぼくが考える科学とどうつながるのか、社会科学を勉強すればぼくの科学に対する考え方も変わるかもしれないし、逆に「あんなの科学じゃない」という感想を持つかもしれません。大学の間にその分野をあまり勉強できなかったのは心残りですが、+Lhacaさんが文中でふれられている経済学は科学なんだなと、なんとなく感じました。
多分に,ご両親と同じ位の年代の私です。「女性」なんて言われるとこちらも照れますが。
母さんみたいだと思って下さい(笑)
まうさん,本当に素敵な青年だと思いますよ。
同僚の新採さんもそうですが,
こんな風に。教え子や我が子も育って欲しいな・・なんて思います。
現行の指導要領
その角屋重樹先生の科学に関する基礎基本より
http://www.jfecr.or.jp/h12_kiyou30/t1-8.html
をご参考に。
ア * 実証性
子どもが発想した見通しは、最初は主観的なものである。このため、その見通しを観察、実験などを通して検討する必要がある。このように発想した見通しを観察、実験などによって検討できるという条件が実証性である。
イ * 再現性
見通しを観察、実験などを通して実証する時、その結果が一過性で一定でないものは人々の間で共有することができない。そこで、同じ条件下では必ず同じ結果が得られるという条件が必要となる。この条件が再現性である。
ウ * 客観性
見通しが実証性や再現性という条件などを満足すると、多くの人によって承認され共有されるようになる。このように、多くの人々によって承認され公認されるという条件が客観性である
まうさんがさらにエントリーされた,
「予想」あるいは類似としてもっと深いの「仮説」は,小学校としては「見通し」として重視されています。
今,社会科学につて学びたいと,
そう切に願っているのですが・・・
様々な切り口に触れることは,
まさにパラダイム変換です。
+Lhacaさんはぼくと違って実体験を基にお話をされるので、一枚も二枚も先を進まれて、その意味では「お母さん」に近いかもしれませんが、やはり第一印象でしょうか、女性ですね。このあたりがネットの特徴でしょうか。「見通し」がたちにくい(←意味が違いますね)
熱心に科学についてお考えを述べていただいて
ありがとう。また,ある意味「女性」でいられることはうれしいことです。人としてそうありたいとも思いますし。
ネット上の人柄や印象は,その管理人やそこに来てくださる方達の「語り」で決まるのかなと思います。
「GUIぱそ」での私は,母親の顔をして語ってはいないのかもしれません。精神年齢はいつも学生の頃から変わってないもので。(たいそうな無理がある(笑))
働く女として,家庭のにおいを持たせていないところ。そこが「見通し」を鈍らせ,‘科学的’に予測しにくい部分なのかもしれません(笑)
予想や予測をする条件が,管理人の語りだけと言うところです。総合的にその人柄への視点を持つことができませんものね。
きっと,私を取り巻く状況一つ一つ検証していくことで,私がどんな人間であるの立証できるのでしょうか(笑)心理学やその他,人間科学についてもおもしろい科学的要素があるのかなと思います。
「ほら〜〜〜そこ,きちんと列の間隔を取って,我慢してピシッとするのよ!」などと
運動会の練習で,活を入れっぱなしだった,
教員の顔+Lhaca@学校昼休憩でした(笑)
ちょっと,お仕事がかさんで,resが遅れるかもしれません。「科学的」な話題なので興味深いのですが,ごめんね。
>思想的バックグラウンドが希薄な日本人
確かに・・・・
それは宗教観と言い換えてもいいのかなと思います。
次期改訂の学習指導要領の一部(自分担当の
教科について)を入手する機会があったので
すが、やっぱり現場との隔たりがあるような
気がしてなりません。
息子達の勉強につき合っていても、ずいぶん
変わったなと思います。内容も方法も・・・
学習指導要領をつくる場合は、もっとはっき
りとした形で諮問機関を設けて、現場の先生
方や保護者に参加してもらうべきだと思いま
す。
それじゃぁ、遅々として進まないという意見
もあるのでしょうが、国家の形成者たちを育
成する大事なマニュアルなんですから・・・
名前入れるの忘れちゃった(笑)
お忙しい中の書き込み,ありがとうございます。
指導要領改訂にあたって,
やはり,私の理科の先輩がそちらに関わってらして,
現要領のどの学年の,どの単元が困難な部分か・・
などの検討を理科の集まりの時問われました。
調査官の方との話し合いの資料にされると。
いくつかの事例を,自分の体験から提供させて頂きました。
理科では,特に5年生の単元が困難なものが目につきます。。「条件制御」の能力を育てる目的にあるものです。
で,私もそのあらましをうかがったのですが・・
ピザとティムスの結果からが反映されてはいるものの,
やはりそうは現場の反映に結びつくものでは
ありませんでした。(・・と感じました(笑))
先輩は,2校目の勤務校で理科主任をされていた,
私が理科に関わる,大きな切っ掛けを作って下さった
尊敬すべき女性で,評価面での国の指定校で,
かなり細かな分析をされています。
実践の上の事も調査官の先生と,
なんどもお話しをされているはず。。。
難しいもようです。
先輩のような現場と機関を結ぶキーパーソン
(saseukeさんもそうでしょうけれど),
がもっと増えるといいな,と思います。
マニュアル。確かにもっとも大切にして欲しいと思います。
只今も,現行のそれ首っ引きで,
指導案作成中であります(笑)
(4年空気のところの単元です)
いろんな都道府県の会議や研究会の意見は聴取しているんですよね。でも、アリバイづくりみたいものです。「皆様のご意見は賜りました。内容を精査し検討した結果、このような内容になりました」ってヤツです(笑)
中間報告の時点で既にガチガチに固めてますから、その前が勝負なんですよね。来年あたりがそのリミットに来ていると思います。
今は、来年度の教科書選定にからんで記述の修正箇所に目が奪われて、いいとか悪いとかに議論が集中していますが、教育の根幹にかかわる新学習指導要領については、見えないところで着々と形作られています。
「なんだ、またかよ!」って状況になるのかな・・・・
おはようございます。
やっと,現行の指導要領に基づいた
二つの指導案の見通しがつきました(笑)
多分に,現場の声を企画の段階では
そうは盛り込んではいただけないでしょうし,
その教科の国際的な流れ(流行かも)や,
専門的な教育学的,心理学的な流れが,
ご専門の先生方で話し合われ,
創られていくのでしょう。
「目の前の子ども」しか見ていない現場には,
そうした学術的な事がよく分かりませんし,
流れを学ぶ意味でも大切なことなのかも知れません。
でも,子どもたちにとって,何が大切なのだろうか・・
ということ,一番目の前で見ているのも
現場の教員なので。
前倒しで行ってきた「総合学習」に対しても。
当初からの反対や,教科への危惧などの世論で二転三転しかけたり,英語学習という枠がぶら下がってきたり,・・閉口せざるを得ません。
そう「根幹」ですものね。